ひょうご☆ふるさと~風だより。

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【兵庫通信】ー「ふるさとの思い出ー三ツ矢サイダー」

私は、昭和22年12月にふるさとの川西市平野で生まれました。

当時は自宅の周りは、山ばかりであった。山でないところは田畑ばかりでした。

 

そのため、地域の働く場所といえば、林業、農業以外は地域で唯一工場があったアサヒビールの平野工場だけであったと記憶する。アサヒビールの平野工場では、「三ツ矢サイダー」を生産していました。日本でサイダーを生産した最初の工場でした。

 

アサヒビールの工場には、地域の男性がたくさん働いていました。私のおじや親類の人も、ほとんどがアサヒビールの社員として工場で働いていました。広い敷地には、赤い屋根の工場がありました。

 

その工場のまん中には「三ツ矢」のマークが描かれた高い塔がありました。遠くからも、その三ツ矢のマークの入った塔はよく見えました。当時の田舎の中では、工場と塔はおしゃれな建物のように感じました。

 

工場の中には私たち子供でも自由に出入りすることができました。子供の頃は私は祖母に頼まれて、工場で働いているおじの昼食用の弁当を届けに行っていたことが、鮮明に記憶に残っています。

 

私が、広い工場の敷地の中を歩いておじに弁当を届けると、おじは、必ず、工場でつくったばかりのサイダーを飲ませてくれました。当時はサイダーは高価な飲み物で、普段は飲めませんので、私は工場にいるおじさんのところによく行きました。

 

サイダーの味は格別でした。炭酸が強いので、一気に飲もうとすると、よくげっぷが出ました。

 

平野工場で生産された三ツ矢サイダーは、皇室にも献上されていました。皇室に届ける特別のサイダーを瓶詰めするための特別な部屋がありました。その部屋の中に入ると、菊の家紋が壁に貼ってありました。

 

私が生まれた頃は、飲み物と言えばミカン水やラムネぐらいでした。サイダーは高価な飲み物でした。

 

アサヒビールの平野工場のそばには塩川というきれいな川がありました。塩川は、川西のまん中を流れる大きな川「猪名川」の支流です。きれいな水がとうとうと流れていました。

 

塩川は、私達子供の遊び場でした。私はよく魚をとりに行きました。夏には、水泳に行きました。平野工場の広い敷地の周りには、様々な樹木が植えられていました。

 

私はよく、夏休みにはセミなどの虫とりに出かけました。春は大きな桜の木が満開になってキレイでした。私はよく桜の花見に行って遊びました。

 

平野工場のそばには、能勢電鉄が走っていました。私の子供の頃は、能勢電鉄は単線で車両は一両でした。

 

能勢電鉄が工場のそばを通ると、私は乗客に向かって手をあげて、あいさつをするのが習慣でした。乗客の皆様も、工場の高い塔の赤い三ツ矢のマークをながめている人が多かったように思いました。

 

野山しかない当時の地元地区では、アサヒビールの平野工場は、地域の誇りでした。そのため、地域の人はビールを飲むときは必ずアサヒビールでした。

 

他のメーカーのビールを出すと怒られました。地元の人はみんな、「ビールはアサヒしか飲まない。」と言っていました。

 

平野工場は今は、DIYの大きな店舗に変わりましたが、赤い三ツ矢のマークがついた塔と、皇室向けの瓶詰め事務所は、今も保存されています。

 

私も、現役のときは、ときどきは工場跡地を訪れて、子供の頃のことを思い出しながら散歩することがありました。

 

三ツ矢サイダーは、今は別の工場で生産されていますが、依然として三ツ矢サイダーアサヒビールの清涼飲料水の代表的な商品として販売されています。

 

私が子供の頃は、サイダーといえばアサヒビールがつくる三ツ矢サイダーのことでした。最近は全国の観光地などでご当地サイダーがつくられているようですね。神戸でも、布引サイダーや有馬温泉では有馬サイダーが販売されていると聞きます。

 

私はいろいろなサイダーを飲みましたが、川西平野でつくられていた三ツ矢サイダーが一番おいしいと思います。

 

今では遠い昔の記憶になりましたが、平野工場でおじが飲ませてくれた三ツ矢サイダーの味がなつかしいですね。

 

昭和のなつかしい思い出です。

 

2020.1.9.(木曜日)午後3時

里山 歩樹 (藪野 正昭)