ひょうご☆ふるさと~風だより。

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神戸の産業振興と経済活性化に40年以上尽くした経験を活かし、
里山歩樹が兵庫の里山から元気に発信します。
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【神戸通信】ー「ルミナリエおじさん」

神戸の有力企業「ノーリツ」の創業者、太田さんが、1月15日に亡くなりました。

肺炎でした。92才です。

 

太田さんは、震災のときは、神戸商工会議所副会頭を務めておられました。太田さんは、神戸経済界の重鎮として、震災からの経済復興に尽力されました。そのリーダーシップは強力でした。行政からも絶大な信頼を集めておられました。

 

特に、よく知られているのは、震災のときに、神戸ルミナリエ開催の陣頭指揮を発揮されました。

 

太田さんは、神戸の主要企業100社以上の経営者に直接ルミナリエ開催費用の募金を依頼されました。その結果、ルミナリエの開催が可能となりました。

 

震災のときは神戸の企業はどこも大きな被害を被っていました。そのためイベントの募金などできないと考えていました。その状況下で、太田さんが企業のトップに直談判されて、巨額の開催費用を集められました。

 

ルミナリエが今年まで25年間も開催を継続できるのは、太田さんのおかげです。

 

太田さんは、大震災の鎮魂のイベントを開催し、神戸を少しでも元気にすることに心血を注がれてきました。そのため、太田さんは、神戸では「ルミナリエおじさん」と言われていました。

 

その太田さんが亡くなられたと、神戸から連絡があったときは、驚いて、しばらくは信じられませんでしたが、地元紙の夕刊の記事を見て、信じざるを得ませんでした。

 

太田さんは、経済復興にで全力で取り組んでこられました。神戸経済界、行政から、絶大な人望を集められていました。神戸の産業界のまとめ役として、なくてはならない人でした。

 

太田さんは、一時、神戸商工会議所の会頭代行を務められました。大震災で、商工会議所の財政が傾いたときに、陣頭指揮を発揮され、商工会議所財政の再建に尽力してきました。

 

私は、その当時、事務局の役員として、財政難に苦労していましたが、太田さんがおられたお陰で、なんとか財政を立て直すことができました。今考えると太田さんがおられなければ、どうなっていたかと思います。

 

神戸の経済界や行政の人は、太田さんが言われることについては、信頼してついていきました。まさに、太田さんは、地元経済界と行政の取りまとめ役でした。兵庫県知事や神戸市長も、太田さんを頼られていました。

 

太田さんは、本当に大きな存在でした。私は、太田さんが怒った顔を見たことがありません。

 

私が、判断に迷ったさまざまな問題を太田さんのところに行って相談すると、太田さんは、どんな問題でも、悠然として、私の説明に的確なアドバイスを頂きました。

 

どんな問題でも顔色を変えたり、声を荒げることはありませんでした。私の説明に、納得すると、静かにうなずく人でした。

 

私の説明で納得がいかないときは、頭を傾けられていました。太田さんが頭を傾けられたときは、さらに検討すべきということだと考えて、考え直しました。

 

太田さんとは、私は公私ともお世話になりました。太田さんが日本酒が好きで、私はよく食事に連れて行って頂きました。太田さんはお酒は独酌で、私が注ごうとすると、自分で飲むから気をつかうなと言われていました。

 

日本酒を飲むときの太田さんのにこやかな顔が思い出されます。太田さんのあのにこやかな顔が見れないかと思うと、悲しくてなりません。

 

どうか安らかにお眠り下さい。

私たちは、太田さんのことを永久に忘れることはありません。

 

本当にありがとうございました。

 

 

合掌。

 

 

2020.1.21.(火曜日)午後12時10分

藪野 正昭

 

 

【神戸通信】ー「神戸マイスター」

神戸は職人の街です。

神戸は「神戸マイスター」の称号を与えられたすぐれた職人がたくさんいます。神戸をすぐれた職人が尊重される街にしようと提案した、神戸の経営者がおられました。

 

その提案を受けて、神戸市が神戸マイスターを認定することになりました。その提案をしたのは、神戸洋菓子大手「モロゾフ」の社長をされていた松宮さんでした。

 

当時、松宮さんは神戸商工会議所の役員をされていました。ファッション都市・神戸の推進者の一人でした。

 

その松宮氏が、ヨーロッパの都市のように神戸を職人がいきいきと輝く都市にしようと提案され、それを受けて、商工会議所も行政に、職人の街・神戸の実現に取り組みました。その提案を受けて、「神戸マイスター」が生まれました。

 

マイスターには、洋菓子のパティシエや靴職人、洋服のテイラー、工場の職人さんなど、幅広い職人が選ばれて、「神戸マイスター」を認定しました。

 

この神戸の取り組みは日本でははじめてのことで、全国から注目されました。もちろん、神戸マイスターには、アパレルのデザイナーも選ばれています。

 

神戸マイスターに選ばれた職人がいる店舗には、「神戸マイスター」のマークがつけられているはずです。そのマークがついた店では、安心して商品を買うことができます。

 

神戸マイスターとともに、松宮さんが提案されたのが神戸のすぐれた商品を集めた「工房の街」をつくることでした。その松宮さんの提案を受けて、神戸商工会議所が行政に働きかけました。

 

その中でいろいろ検討したところ、北野にあった北野小学校が廃校になっていたので、そこを利用して、「北野工房のまち」を建設することになりました。

 

「北野工房のまち」では、そこでしか買えない神戸のすぐれた商品を販売することにしました。松宮さんの提案を受けて、神戸の有力な食品メーカーのUCC上島珈琲、伊藤ハムモロゾフゴンチャロフなどの企業が出店しました。

 

食品以外では、神戸の真珠、神戸のシューズなどの企業が出店しました。観光客が集まる北野の近くになったので、開店するとともに観光客がたくさん集まって、人気がありました。

 

小学校の運動場が観光バスの駐車場となったので、観光バスでたくさんの人が集まってきました。「北野工房のまち」は、今でも、年間100万人以上の観光客を集める、神戸の観光スポットとなっています。

 

今考えると、以前の神戸経済界にはすぐれた経営者がたくさんおられました。それらの経営者が、神戸の街の発展のため、努力されてきました。その一人がモロゾフの松宮さんでした。

 

そのほかにも、ワールドの木口さん、アシックスの鬼塚さん、UCC上島珈琲の上島さん、伊藤ハムの伊藤さん、田崎真珠の田崎さんなど、神戸のためなら、自社の経営を離れて、神戸全体のために全力で取り組まれた人がいました。

 

その人たちが、当時の神戸の街を支えられました。残念ながら今は、そのようなすぐれた経営者が少なくなったように思います。

 

大震災から25年が過ぎました。この25年は、失われた25年のようで、神戸経済が沈滞した時期でしたが、次の25年は、神戸が再生、発展する25年にしたいですね。

 

そのためにも、神戸の経済人の皆様には、昔の神戸の姿を思い出して、ガンバってもらいたいと思います。

 

神戸の経営者、ガンバレー!!

 

2020.1.20.(月曜日)

里山 歩樹 (藪野 正昭)

 

【日常通信】ー「大学入学試験」

昨日、大学の共通入試センター試験がありました。

共通センター試験は今年が最後のようです。来年からは新しい試験になるようです。

 

私が学生のときは、共通センター試験はありませんでした。大学入試は、それぞれの大学の試験を受ける必要がありました。そのため、私は志望大学に受験に行きました。

 

私は浪人したくなかったので、兵庫、大阪、京都の大学に受験に行きました。たくさんの試験を受けに行った記憶があります。

 

受験シーズンで記憶に残っているのは、寒い時期だったということです。寒くてふるえながら各大学の入試を受けに行った記憶があります。その時は、なぜ、こんな寒い時期に入試をするのかと思ったものです。

 

大学によっては、教室に暖房が入っていない大学が多かったように思います。ふるえながら、試験を受けたことが思い出されます。

 

私は幸いにも、いくつかの大学に合格することができました。そこで、私は第一志望の関西学院大学へ入学することにしました。阪急電車に乗って、あこがれの関西学院大学に入学できると思うと、うれしくてなりませんでした。

 

関西学院はきれいな校舎があり、芝生の大きなキャンパスがあって、私にとっては夢のような大学でした。

 

大学入試というと、私は自分の入試のときのことより子供たちの入学試験の方がよく覚えています。子供が入試の時期は、子供たちが風邪をひいたり、インフルエンザにならないか心配でなりませんでした。

 

そのため、私は自分が風邪やインフルエンザにかかって子供にうつしたりしないように、気をつかいました。入試の時期に家にいたときも、家族全員が緊張していたように思います。

 

入試シーズンの2月~3月は家族全員が緊張して過ごしていました。あまり楽しい記憶がありませんでした。受験生の家族にとっては、入試シーズンの2月~3月は、つらい時期でした。

 

今日の朝刊には、昨日の共通入学試験の問題が出ていました。私も少し問題を読んでみましたが、まったくわかりません。あまり難しい問題なので、今の学生は大変だなと同情しました。

 

これからいろいろ受験シーズンに本格的に入ります。受験生や、その家族の皆様は大変な時期ですが、体調を崩さないように気をつけてほしいですね。

 

近年は少子化で、学生の数が減っているので、大学入学も私達のように、狭き門ではないようです。私のときは団塊の世代で、たくさんの受験生がいて、大学は狭き門でした。

 

私達の時代は、いつの時代も人が多くて、競争が多い時代でした。私達の時代の頃は大学だけでなく、就職などでも、競争相手が多くて大変でした。

 

今日の共通センターの記事を読んで、遠い遠い、昔の入学試験のことを思い出しました。この時期は試練の時期でした。受験生の皆様にも同情します。

 

どうか、体調に気をつけて、ガンバッてください。

 

ガンバレー受験生!

 

2020.1.19.(日曜日) 午前11時38分

里山 歩樹(藪野 正昭)

 

 

【神戸通信】ー「阪神淡路大震災25年」

昨日は、あの大震災の25年目の日でした。

新聞を読むと、朝刊は、全紙で震災の記事が一面を占めています。追悼行事のことが大きく報道されています。私もあらためて、25年前のことを思い出しました。

 

幸い大震災で、私が勤務していた組織の職員には、犠牲者は出なかったが、職員の中には家が倒れたり、避難所から出勤する職員がいました。職員は全員無事でしたが、役員や関連者の中には、亡くなった人がいました。

 

私たちの団体は、神戸の企業が会員になって、その会費で運営されているので、震災で退会が出て、会費がもらえなくなるのではないかと心配になりました。若い職員の中には、団体が潰れるのでないかと心配する人もいました。

 

当時は電気やガスが止まったままでしたが、寒い中で分厚い服を着ながら仕事をしたことが記憶に残っています。

 

その中でも、大阪や各地の会議所から、応援に来てくれる人がいました。そのときのうれしさは、いまも、忘れません。

 

全国各地からの支援で、建物の被害を直すことができました。そのときほど各地からの支援のありがたさを感じたことはありませんでした。

 

当時一番困ったのは、電車が止まったことでした。ポートライナー、阪急、阪神、JRも神戸周辺はすべて止まっていました。しかたなく私たちは徒歩で、電車が動いている駅まで行きました。

 

ポートアイランドには、バス運行されましたが、長蛇の列で乗ることができません。私は川西の自宅から、しばらく阪急電車に乗って、約3~4時間かけて、ポートアイランドの事務所に行きました。仕事が終わっても、家に着くのは夜遅くなっていました。

 

家に帰っても、疲れて、すぐに寝てしまいました。少し寝ると、また朝になって起きて出かけました。今考えると、神戸で仕事をしている時間より、行き帰りの通勤時間の方が長かったように思います。

 

私は、震災のときにはじめてポートアイランドから船で、関西国際空港に行って驚いたのは、関空では観光客であふれていました。みな楽しそうな顔をして、大きな旅行バッグを持って、海外に出かけるのを楽しそうにいていました。

 

神戸ではライフラインが止まって、食べるのにも困っているのに、関西国際空港ビルに行くとレストランがお客さんで満員でした。

 

おいしい料理がどこのレストランでも並べてありました。私は、神戸の被災地と大阪の違いにあぜんとしました。

 

私は震災ルックで大きなリュックをかついでいましたが、関西国際空港にいる人はおしゃれな服を着ていました。その姿に私はこれが現実なのかと疑いました。

 

今考えるとあんなに頑張れたのが不思議です。人間は、追い込まれると思わぬ力が出るものですね。今、あのときのことをしろと言われても、とても出来ません。

 

あの大震災では6400人以上の人が亡くなりました。日本は震災列島です。またあの大震災がいつ来るかもわかりません。ついこないだも東北大震災がありました。日本は災害列島だということを忘れてはなりません。

 

阪神淡路大震災の経験を後世に伝えて、生かしていかなくてはなりません。

それが、今、私達の責任だと考えます。

 

風化してはいけません。

 

 

2020.1.18.(土曜日) 午前11時45分

里山 歩樹 (藪野 正昭)

 

 

 

【神戸通信】ー「1.17.」

今日、1月17日は、阪神淡路大震災があった日から25年目の日に当たります。

 

私は、1月17日は自宅の2階で家族と一緒に寝ていました。その時、突然ドーンという大きな音がして、目が覚めて、辺りを見回すとなぜか天井が揺れています。

 

私はとっさに地震と思い、ふとんから出て、立ち上がると、家の中のタンスが揺れています。私はあわてて、タンスが倒れないように、手でタンスを押さえるとともに、一緒に寝ていた妻と娘に、「地震だ!ふとんをかぶって!」と叫びました。

 

地震の揺れは、数秒続きました。ようやく揺れが収まったので、私は隣の部屋に寝ていた息子のところへ行くと、部屋の本棚から本がすべて落ちていて、足の踏み場がなくなっていました。

 

幸い家族には、ケガはなかったので、ホッとしました。そして、私はあわてて1階で休んでいる母の部屋へ行きました。幸い、母の部屋は何事もありませんでした。

 

私は母の無事を確かめてから隣の応接間に入って、テレビをつけました。テレビでは、神戸地方で、大きな地震があったと放映していました。私は、そのテレビで、神戸に大震災が発生したことを知りました。

 

テレビの放映を気をつけて見ていると、はじめは、何人かの犠牲者が出ている模様とのことでしたので、私はそれほど大きな被害はないと、安心していましたが、時間が経つとどんどん被害が大きくなっていきました。

 

神戸には家内の実家が御影にあるので、心配になりました。ところが、電話は不通で、家内の実家とは電話がつながりませんでした。

 

地震直後は、電気や水道とライフラインは動いていました。ところが、しばらくすると、電気、ガス、水道も止まりました。私はこれはただごとではないと感じました。

 

地震が発生した5時46分は、まだ暗くて、外の様子がわかりません。そのため不安がどんどん募っていきました。

 

テレビの報道を聞いていると、交通機関は、すべて、止まっているとのことです。神戸地方のことが気になりましたが、通勤に使っている能勢電車が不通になっているので動きがとれません。神戸の事務所に電話を入れても、通じません。

 

そのときに、公衆電話は通じると聞いたので、私は自宅の近くの公園にある公衆電話に行って、御影の実家と事務所に電話をかけましたが、何回かけても、通じません。

 

私は家内の実家が東灘区の御影にあったのが不安になりましたが、どうすることもできません。当時は今のような便利な携帯電話がありませんでした。そのためイライラしながら17日を過ごしました。

 

夜になって、能勢電車が動くようになったと聞きました。そこで、私は夜が明けるのを待って、18日の早朝、自宅から神戸に出かけました。

 

能勢電車で川西能勢口駅に行き、そして、大阪周りで梅田まで行きました。阪急電鉄は大阪行きだけが動いていました。宝塚行きは不通になっていました。

 

そのため、いったん大阪の梅田に出てから、神戸線に乗り換えて、西宮北口まで行きました。西宮北口から神戸までは不通でした。私は仕方なく、西宮北口から、線路に沿って、神戸まで歩くことにしました。

 

私は、自宅から2リットル入りのペットボトルを3本と、家内がつくってくれたおにぎり約30個ほどを、大きなリュックサックに入れて、神戸に向かいました。

 

阪急の線路の上を歩くのは大変でしたが、線路を歩かないと神戸までの行き方がわかりません。私は、西宮北口から芦屋駅まで線路上を歩いたあと、芦屋からは線路の近くの道を歩いて、神戸に向かいました。

 

あのときの街の様子は、忘れられません。まるで戦場でした。

 

家はすべて倒れています。あちこちで火災が発生していました。道路を歩いているとあちこちから消防車、パトカー、救急車のサイレンの音が聞こえてきました。余震が次々と起こり、私はそばの家がいつ倒れるか心配でなりませんでした。

 

御影の家内の実家に行くと、家は大丈夫でした。妻の両親も無事でした。私はそれを見ると安心して、どっと疲れが出ました。

 

私は持って行ったペットボトルの水とおにぎりを御影の自宅に届けてから、そこから、神戸のポートアイランドにある事務所まで、さらに歩いていきました。今思うと、びっくりするほどよく歩きました。

 

途中、神戸製鋼所の近くに行くと、本社ビルが倒れているのを見て驚きました。私はそれを見て、神戸の経済が壊滅すると思いました。

 

ポートアイランドには神戸大橋を渡る必要がありますが、橋のまん中まで行ってみると橋に亀裂が発生して、下を見ると海が見えました。私はそれを見ると、恐ろしくなって足がすくみました。

 

何とか事務所に着くと、事務所ではロッカーがすべて倒れていて、スプリンクラーが壊れて水びたしでした。事務所には、近くに住んでいた職員が2~3人ほど来ていました。

 

私は、とりあえず、職員の安否を確かめることにして、公衆電話を使って電話を職員の家にかたっぱしからかけることにしました。幸い、職員は無事でした。

 

今も、1月17日のことを思い出すと、涙が出てきます。

 

このことは、いつまでも風化することなく伝えていく必要があると思います。

 

 

2020.1.17.(金曜日) 午前11時45分

里山 歩樹 (藪野 正昭)

 

 

【日常通信】ー「昭和の駄菓子」

私は、おやつをよく食べます。

食後には必ず果物とともに甘いおやつを食べるのが習慣となっています。おやつを食べるときに、私はよく子どもの頃に食べたお菓子のことをよく思い出します。

 

私が子供の頃は、今のようなおいしい、高価なお菓子はありませんでした。母からもらったわずかのおこづかいをためて、近くにあった駄菓子屋にお菓子を買いに行きました。駄菓子屋に入ると、様々なお菓子が並んでいました。

 

子供の私は、持って行ったおこづかいで何を買うか迷ったものです。駄菓子屋で売っているお菓子はほとんどが1円か5円程度のものでした。私は持って行った小銭で、せんべいやあめだまをいくつか買うのが習慣となっていました。

 

子供の頃によく食べたせんべいは、塩せんべいが多かったように思います。少し、しょうゆの味がするせんべいの味が、私は大好きでした。それとよく食べたのはエビせんべいでした。また、塩昆布もよく食べました。

 

あめでよく食べたのは、グミあめでした。やわらかい食感のグミあめがおいしいので、よく買って食べました。駄菓子の中には、イカの足を甘辛くしたものもありました。

 

チキンラーメンを小さな袋に入れたものもありました。チキンラーメンをそのままかじって食べるのが好きでした。

 

駄菓子屋で買う菓子はどれも1円~5円程度のものなので、少しのこづかいでも、いろいろ買うことができました、私がよく行く店に行くと、店のおばさんがよくおまけしてくれました。

 

私が子供の頃によく食べて、記憶に強く残っているのは、ポン菓子ですね。私の子供の頃は、よくポン菓子をつくる業者がやってきました。家からお米を持って行くと、それでポン菓子をつくってくれました。

 

ポン菓子は、大砲のような形をした容器にお米を入れて容器を爆発させてつくります。爆発させたときには、ビックリする大きな爆発音がしました。私はその音が怖いので、少し離れたところから耳をふさいで見ていました。

 

できたてのポン菓子は、あたたかくて、甘い味がしました。私は白いポン菓子が大好きでした。私はごはんを食べるかわりに、ポン菓子を食べて、よく母から怒られました。

 

駄菓子屋に行くと、ポン菓子をボールのように丸めた菓子が売っていました。私はそのポン菓子を、大きな口を開けて食べるのが好きでした。甘いポン菓子の味は、今もなつかしく思い出しますね。

 

ポン菓子は、今でも、神社の夜店などに行くと売っています。私はポン菓子を見つけると、必ず買って帰りました。

 

それと、神社の屋台でよく買ったのは、わた菓子です。わた菓子のふわふわした甘い砂糖の味は格別でした。

 

それと、子供の頃に食べた菓子は、水あめですね。昔は業者の人が自転車で水あめを売りに来ました。私は、業者の人が来ると、家から急いで出て、水あめを買いに行きました。水あめを小さな2本の棒につけて売ってくれました。

 

2本の棒を使って水あめを曲げると白い色に変わるのが楽しかった記憶があります。白くなった水あめを食べると、甘い味がしました。

 

子供の頃のおやつといえば、素朴な駄菓子です。今の子供は、普段から高価なチョコレートやケーキを食べているので、私が食べたような駄菓子を食べようとは思わないでしょうね。

 

しかし、あの時代は駄菓子屋で売っている駄菓子を買うのは、最高の楽しみでした。

私の子供の頃のなつかしい思い出です。

 

 

2020.1.16.(木曜日)午後2時48分

里山 歩樹 (藪野 正昭)

 

 

【日常通信】ー「冬本番」

このところ朝晩の冷え込みが急に厳しくなったように感じます。

今日は1月15日です。令和2年の正月も今日で終わります。15日には正月のしめ縄などをとんど焼きに持って行って燃やす日です。

 

以前は、私がしめ縄を持って近くの神社「多太神社」に行って、神社のとんど焼きの中にしめ縄を燃やしたものです。神社の境内では、村の青年団の人が大きな木でやぐらを組んでとんど焼きをしていました。

 

炎が空高く舞い上がっていました。近くに行くと体があったかくなりました。とんど焼きにしめ縄を燃やすと、この1年元気に暮らせると言われていました。

 

昔から、15日を越えると冬がいよいよ本番になって寒くなったように感じました。私は寒がりなので、いよいよ試練の季節が来るなと思って、ゆううつになったものです。

 

しかし、近年は、温暖化のせいか昔ほど寒くなくなりました。私にはありがたいですが、このまま温暖化が進んだら大変なことにならないかと心配になります。

 

このごろは、寒い日でも、電気ストーブや、暖房機などがあって、家の中にいるとあまり寒さを感じることがなくなりました。便利な時代になりました。寒がりの私でも、冬があまり嫌ではなくなりました。

 

私が子供の頃を今もよく思い出します。昔は石油ストーブなどの便利なものはありません。あるのは火鉢と掘りごたつだけでした。寒い時は、私は火鉢を抱いて暖を取りました。寒いときは、掘りごたつに入ったまま、いつまでも座っていました。

 

それだけ寒くてたまりませんでいた。そのため、家の中にいて、いつも分厚いどてらを着て過ごしていました。夜寝るときは、母が湯タンポを入れてくれました。

 

また、まめたんを入れたこたつを入れたふとんの中に丸まって、夜を過ごしました。まめたんの入ったこたつがあまりに熱かったので、やけどしたこともありました。

 

祖母や母は、いつも火鉢にやかんを乗せて、湯を沸かして少しでもあたたかくしてくれました。母は、いつも、桐灰の入った小さなもの、「カイロ」を入れていました。今のようなホッカホカのようは便利なものはありませんでした。

 

昔から、1月15日になると、急に寒くなり、雪がよく降りました。私の過ごした川西地区では、2月が1番寒い季節でした。このため、私は、子供の頃から2月が一番苦手でした。

 

雪が降ると、子供の頃は雪だるまをつくったり雪合戦をして遊びました。近くの広場で雪を踏みしめながら走り回ったこともありました。

 

楽しい思い出もありますが、私は寒いのが苦手なもので、あまり楽しい記憶はありませんでした。毎年、3月、4月になって春が来ることが待ち遠しかったですね。

 

いつも、早く春よ来い春よ来いと願っていました。冬はいつまでも続かない。冬の後には必ず春がくると、自分に言い聞かせて、寒い冬を耐えて過ごしていました。

 

子供の頃、近くの公園に行って桜の木を見ると、枝に小さな赤い芽が出ていました。私はそれを見て、もうすぐ春になると感じました。

 

公園の中で、小さな芽を出した木々が、いとおしく感じられました。私は公園の中の木々に、手をあてて、もうすぐ春だ!がんばれよとつぶやきました。

 

今年も、これから冬本番です。この時期が来れば、次は春です。春は間違いなくやってきます。春が来るのを楽しみに待ちましょう。

 

春よ、早く来い来い。

春よ来い!!

 

2020.1.15.(水曜日) 午前11時27分

里山 歩樹 (藪野 正昭)